好きなバンドには絶対に再結成してほしくない

 ここ数年、かつて解散したバンドが再結成するという動きが多いような気がする。いちいち例を挙げないが、それがたとえ商業的な理由であったとしてもおおむね歓迎されているような雰囲気であるように思う。

 

 さて、ここで本題に入ると、僕は自分の好きなバンドには絶対に再結成してほしくないと考えている。特に、自分の青春時代に聞いていたようなバンドたちには。

 

 具体的には、NUMBER GIRLには絶対に再結成してほしくないと思っている。もし実際に再結成されたら地を這ってでもライブを見に行くだろうし、その1曲目はどの曲だろう? と妄想することもあるけど、再結成してほしくない気持ちは本当だ。

 僕がNUMBER GIRLを熱心に聞き始めたとき、バンドはすでに解散した後だった。だからライブを見たことはなく、DVDでしかバンドの姿を見たことがない。

 僕にとってのNUMBER GIRLとは青春時代のきらめきのように、どんなに追い求めても手の届かないものであり、これからもそういうきらめきとして自分の人生に刻んでおきたいと思っている。

 そして向井秀徳をはじめとするメンバーたちにとっても、メジャーデビューして福岡から上京して、若い時代を費やしたバンド活動は青春だったと後々語られている。*1

 

 ざっくりとまとめると、NUMBER GIRLは青春そのものだから、それが良い方向に、であったとしても変わってほしくない、という懐古厨のぼやきです。

 最後にまじめなことを言っておくと、向井秀徳はその才能をバンドの化学反応中で最高に爆発させるミュージシャンなので、NUMBER GIRLを再結成してもかつてのような曲は出てこないんじゃないかなぁ、と思う。ドキュメンタリーに残ってるスタジオ内の映像とかすごいもん。後で見返して自分の出した指示の内容がよくわからないのに、その場のセッションがどんどんよくなっていくのとか(一息)。

 

 執筆者:六条くるる

*1:ソースは記憶が曖昧なものの、NHKラジオのミュージックファイルだったと思う。

【連作編】六条くるるの浅墓短歌講座

 六条くるるの短歌は歌集で読むほうがいい。僕がこう主張するのは、もちろん本が売れてほしいからということもあるが、歌集に収録する作品は連作としてアップデートされて収録されているからだ。
 短歌は連作ではなく一首で勝負するべき、という意見も一理あるし、場合によってはそれが真理となるときもあるだろう。とはいえ、歌集には複数の歌が含まれているのが普通である以上、前後の繋がりや流れを読者が意識することは避けられない。ならば下手に避けようとせずに向き合ってみるべきではないか。
 以上を前置きとして、六条くるるの連作に対する私論を述べてみたいと思う。
 
1.微妙な歌を入れる
 かなり誤解のある書き方ではあるが、具体的には以下のような内容である。
 微妙な歌とは、一首しか投稿できないときには選ばないが連作の流れでならば収録してもいいかな、という歌である。さらに雑な説明をすれば、自分の中の採用ラインが80点以上の歌だとすれば、60点くらいの歌のことであり、作ったそばから捨ててしまいたいような出来栄えの悪い歌のことではない。
 注意しなければならないのは、それは微妙な歌ではあっても無駄な歌ではないことだ。一首としてクオリティが低いものの、連作の中で明確な役割を持てるものしか採用すべきではない。
 これまでの連作では「詩的な強度はないが連作のテーマを再帰的に読者に提示する」といった役割を持たせることが多かった、と参考程度に付記しておく。
 
 
2.お話を作りすぎない
 僕が読者として短歌を読むとき、30首の連作は途中で飽きてしまう。なので、自分の読者も同じくらい飽きっぽいだろうという想定で連作を編集するようにしている。
 その一環として、先ほど述べたようにテーマを提示するような歌を混ぜ込んだりするのだが、それ以上に効果的な方法がある。それはお話を作ることだ。何かストーリーがあれば、読者はそれを追いかけることで飽きずに読み進められるというわけだ。
 しかし、お話は作りすぎないほうがよい。お話の筋をなぞるようなあらすじ短歌は、前後の繋がりに依存するため一首として自立性に欠けており、作った瞬間お蔵入りになるのが常である。また、お話の筋として読み流されてしまうと、意味内容だけ拾われて短歌としてじっくり鑑賞されなくなる危険性も高い。
 お話は読者に読んでもらいやすくなる一方で連作そのものが駄目になってしまうこともある。ならばどうするべきか。
 僕の場合、お話の流れを強く意識させてしまう短歌を間引くようにしている。さらにはメインストーリーを形作る短歌は飛ばし飛ばしに配置するようにして、お話の存在の少しだけ見えにくくする。
 お話を読者に意識させたいのかさせたくないのかどっちかはっきしろ! と思うかもしれないが、何もないところにも勝手にお話を想像(創造)してしまう人が多いので、少し隠し気味くらいでちょうどよい、とこれまでの経験からそう思う。その隠す/見せるの按配は失敗しながら学ぶか、自分の理想的な連作を何度も読んで雰囲気を真似るようにするとよい。
 
 
3.印象を大事にする
 一通りの作業が終わったら、仮組みした連作をあまり読まないようにさらっと読み返してみるのも大事だ。何を言っているのかわからないと思うかもしれないが、ようは字面から浮かび上がってくる雰囲気とか印象とかを感じ取れ、ということだ。
 なぜこの作業が必要かというと、読めば素晴らしい連作でもなんとなくの雰囲気が嫌な感じだと読者が離れてしまう可能性が高いからだ。なんかゴチャゴチャしているとか、抽象的な歌が続いて読んでいてつらいとか、そういう印象が得られれば連作を修正すべきだ。
 無論、ページからの印象が悪くとも素晴らしい連作はいくらでもあるだろう。ゴチャゴチャしてようが、抽象的な歌ばかりだろうが、ぐんぐん読ませてしまう魅力的な歌が揃っていれば連作全体での印象が多少悪くても一切気にすることはない。
 ただ、僕はそういう作品は作り出せないと思っているので、そうじゃない人がどうにか読んでもらえる連作を仕上げるためにこのプロセスは必要だと思う。
 
 読者を信頼する、というのは大事なことだが、それは読者に丸投げしてもよいとか、読者に負担をかけてよい、という意味ではないはずだ。
 
 
 以上、久し振りの浅墓短歌講座でした。
 

 

ポケモンGO飽きたわーという人へ

 ポケモンGOというゲームがあり、プレイしたことがある人も多いだろう。
 公式サイト(http://www.pokemongo.jp/)の説明を引用して説明すると、「『Pokémon GO』は、位置情報を活用することにより、現実世界そのものを舞台として、ポケモンを捕まえたり、交換したり、バトルしたりするといった体験をすることのできるゲーム!」である。
 
 僕の周りでは、すでに飽きてしまったという人も多い。どこに行っても同じようなポケモンしか出現しないし、分かりやすいストーリーもないので、歩いてポケモンを捕まえて時々バトルするだけという単純作業に挫折する人がいるのも納得である。
 僕自身はというと、まだこのゲームをプレイし続けている。一部の熱心なプレイヤーのようにポケモンが多く出現する場所に遠征したりすることはないが、毎日のように歩いては1,2匹ほどのポケモンを捕まえる。
 どうしてそういった地道なプレイを続けているのかというと、それはAR機能によるところが大きい。ポケモンGOでは(図1)のように現実の世界にゲームの映像を重ねて表示できるAR(拡張現実)機能がある。これによって、ゲームの世界だけではなく、現実の世界にもポケモンがいるかのような体験ができるというわけだ。
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(図1)
 
 ……と息巻いてみても、シラけてしまう人もいるだろう。映像もそこまでリアルではないし、子供だましレベルじゃないか、と。
 
 たしかに映像体験としてややチープな部分があるため、今後のデバイス・アプリの両者の技術の向上に期待したいところだ。この機能が僕にとって素晴らしく感じるのは、脳内補完が非常にはかどるからだ。普段何気なく歩いている道にも自分が気付いていないだけでポケモンが潜んでおり、ポケモンGOはそれを可視化してくれるのだと。
 
 おそらく、こういった誇大妄想を抱えながらポケモンGOに触れる人は少ないだろう。ここまで辛抱強く読んでくれた人もあまりの妄想っぷりにドン引きしているかもしれない。
 けれども、僕はこのような姿勢は今こそ改めて実践されるべきだと考えている。このような姿勢とは、良いように言い換えれば、豊かな想像力で物事に接する姿勢である。
 現在、スマートフォンアプリに限らず、コンテンツは吐いて捨てるほど存在し、つまみ食いして飽きたら捨てて他のものをまたつまみ食いすることが可能な状態にある。しかも基本的には無料で(時間とか健康とかは浪費されてしまっているが、本題ではないのでここでは言及しない)。
 混沌としたコンテンツの海の中では、自分から遊んでいるのか遊ばされているのかわからなくなってしまうことがあり、もはや自分でも全然楽しくないと心のどこかで気付きながらも無意識にアプリを立ち上げていた……という経験があるのは僕だけではないだろう。
 ここであえて陳腐な言い方をするならば、受動的にコンテンツを浴びるのではなく、能動的に自分なりの楽しみ方を発見していくべき、となるだろうか。
 2017年はVR関連のゲームなどもいよいよ普及していきそうな雰囲気があるが、その新奇性も正直どこまで持続するかはわからない。たとえ技術革新が次々と連鎖してSF映画のような体験が可能になったとしても、いずれその刺激にも慣れてしまう時が来る。人間とはそのような生き物だからだ。
 刺激が足りなくなればまた新たな刺激を求めればよい――たしかにそうかもしれないが、そうして加速度的に刺激を求めていくことに、僕は生理的な嫌悪感を覚える。ある人は僕を新しいものを拒否する老害と呼び、非難するかもしれない。そうであっても、僕は若手の老害として、この主張を続けていきたい。
 自分を満足させてくれるものを求めて延々と乗り換えていった先に、自分の欲しかった感動があるならば、その選択もいいだろう。それでもなお、僕は一度立ち止まって、感動を自分の手で創造する道を選ぼうと思う。
 
 ポケモンGOに限らず、僕は何かに飽きてしまったときは別の視点から深堀りすることはできないか、と少しだけ考えてみることにしている。最新のものにキャッチアップして得られる経験に比べれれば些細なものかもしれないが、自分で創意工夫をしながら得た小さいもののほうが思い出として残り、あなたの人生を支える良い記憶となることもあるだろう。
 もちろん、どうしたってダメなものは存在するので、それを見分ける目で自分で失敗しながら身に付けなくちゃいけないのだけど。
(c)午前3時の六条会