「クズって言うやつはクズ」という論理について

 他者をクズなどといって罵るやつこそクズである。

 この意見は人道的視点から主張するものではない。つまり、他者を口汚く罵るやつは人でなしだ、などということを言おうとしているわけではないのだ。第一、クズと言われるようなやつにはそれなりに駄目なところがあるのだから、クズと言われた側も「まあそう言われても仕方ねえよな」という思いがあってしかるべきである。  小生はあくまで論理的視点から主張しているのだ。

 では、命題「クズっていうやつはクズ」はどのような論理で成り立っているのだろうか。

 まず他者をクズと罵る主体は、他者を堂々とクズ呼ばわりするくらいだから、少なくとも自身はクズではないという自負があるのだろう。その立場を素直に受け止めるならば、主体は真人間であるということになる。

 そのご立派な主体様は真人間なのだから、おそらくはクズのようにだらしなかったりすることもなく、自身の責任をきっちりと果たしてなおかつクズという他者にまで気配りができる立派な人物なのだろう。

 しかし、その主体は重要なことを見落としている。

 だからこそ小生は主体はクズであると主張し、命題「クズって言うやつがクズ」が成り立つと断言できる。

 考えてみればわかることだが、主体はクズという他者を認識しながらもそれを罵倒するばかりで排除しようとしていない。

 本来、真人間ならば目の前に落ちているゴミは掃除しようとするものだし、そういったクリーンな環境のほうが能率も上がるはずなので、周りに清掃活動を呼びかけたりしそうなものである。

 しかし、この主体は自分から動かないばかりか他者を罵倒するばかりで、具体的な行動を何も起こそうとしていない。こういった行為は、明らかに他者を罵倒することで自身の優位を確保しようとする浅ましいクズのすることである。

 以上のことから、命題「クズって言うやつはクズ」が成立することがわかるだろう。

 最後になるが、冒頭でも述べたように、クズって言われるやつは言ってくるやつがクズであろうとなかろうとどっちにしろクズなので、色々と言い訳せずにどうにかしたほうがいいと思う。本当の真人間が目の前に現れなくても、社会というシステムによって排除されてしまうからだ。南無。

 

 執筆者:六条捻  

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