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「ヤバイ」がやばいことに気付いていないのはヤバイ

 若者の言葉の乱れ、といったことはいつの時代でも言われることなので取り立てて気にする必要のない現象だと思われるが、これに目くじらを立てて反発する人間は少なからず存在する。これも珍しくもなんともないことなので気にかけるほどのことでもないのだが、今回はこのあたりから話を進めてみたい。

「ヤバイ」という言葉がある。これは若者言葉というほどのものではないかもしれないが、一部の人間が文句を言いたくなるような状況を生み出す力をもった言葉であることは間違いない。
 若者の語彙の貧弱さを嘆く声はそこかしこで聞かれるが、その中心にある言葉のひとつが「ヤバイ」ではないだろうか。なにか食べものを口にしたときの感想が「ヤバイ」であったり、映画を鑑賞したときに口をついて出る言葉が「ヤバイ」であったり、自分ではどうにもできない苦境を目の前にしたときにつぶやく言葉が「ヤバイ」であったりと、例を挙げると数に限りがないくらいには乱用されている言葉であることはご存知の通りだろう。
 それぞれのケースにおいてもっと適切だと思われる表現がありそうなものだが、一様に「ヤバイ」としか言わない若者を見れば、一定数の人々が「言葉が乱れている」「語彙が貧しい」「国語力が低下している」などと言いたくなるのはもっともだろう。

しかし、「ヤバイ」という言葉が乱用されるのは若者の語彙が貧弱だから、というのはこれらの現象のごく一部分しか捉えられていないのではないか、と考えてみるのはどうだろう。ほんの少しだけ、若者びいきな物の見方をしてみるのもいいかもしれない。
 つまり、語彙の貧しさによって「ヤバイ」を使わざるをえないのではなく、本当に「ヤバイ」としか表現しようがないのではないか、というダイナミックでファンタジックな仮説はどうだろうか。
 若者たちは我々の想像が及ばないほどに感受性が豊かになっているせいで、本来であれば既存の語彙で十分に表現できるようなものであっても、その感受性の感度が高すぎるゆえに、「言葉にできない」のかもしれないし、脳内で情報を処理しきれずに"beyond description"状態が続いているのかもしれない。あるいはたくさんのメディアから情報を取り入れすぎているだけかもしれないが。

私自身、この仮説が正しいとはあまり思っていないが、彼(女)らは言葉よりも感性が発達した人類である、と考えること自体はそれほど悪いことだとは思わない。自身とは異なる他者がいかに不可解に思えようとも、そこには彼(女)たちにとっては極めて自明な理由が存在しているに違いないからだ。
 スマートフォンをはじめ、若者に対する愚痴を言う世代以上に若者世代がたくさんの情報の波にさらされるような状況は現実にあるのだし、これほどまでに生きている環境が違うのだから、その環境に適応するために身につけた能力が違っていてもなんら不思議ではない。

こういった若者の言葉に関しては言語学の立場から「言語の経済化」といった切り口である程度の分析を加えることができるかもしれないが、今回はそこまで踏み込むことはしないでおく。
 そんなことをしたって本当になにがヤバイのかはまったく伝わらないだろうから。

 執筆者:六条綾

(c)午前3時の六条会