「早起きは三文の得」にしかならない

「早起きは三文の得」という言葉があるが、この言葉が生まれたころとは貨幣価値が変わっていることを考慮すると、たった三文の得にしかならない早起きを無理してまでする必要があるのだろうか、と考えてしまう。リスクとリターンが釣り合っていない、と思ってしまう。
 もちろん、こういった言葉はコアとなる部分こそが重要なのであって、三文といった具体的な部分はあくまでも例えにすぎず、全体を抽象化したうえで教訓を読み取ることが重要なのはいうまでもない。
 しかし、今回に限っては元々のその言葉がそのかたちで受け継がれてきたことに注目しながら言葉を再解釈する遊びをしてみたい。

「一寸の虫にも五分の魂」という言葉がある。
 これは一寸という小さいサイズの虫にもその半分の大きさの五分の魂があるというところから転じて、弱者を侮ってはならないという戒めを示す言葉である。あるいは弱者が強者に対して自身の意地を示す場合にも用いるという。
 先ほどの論法でいくならば、たった五分の魂ならは価値がないから無視してもよい、というふうにはなるはずだが、今回は扱っているのが命という価値の評価をしにくいものであるために同じ論法を用いることができそうにない。そう考える人が多いのではないだろうか。命は命として尊重すべきである、という意見は正論のなかの正論であり、ほとんど反論の余地がないように思われる。

……どうにも腑に落ちない。

 現実として人間は他の生き物の命を奪っているわけであり、略奪しているのは現代の自然科学では意識の認められない生き物だとしても、殺しているのは事実である。その命が奪われている現場ではほとんど罪の意識が生じていないことから、人間は明らかに命の尊卑を勘定していると認めなければならない。
 こういった現実から目を背けず、人間がその命の尊大さを振りかざしていることを忘れないためにも、この時代遅れの言葉は受け継がれていくべきものだと言える。  以上、とくにオチもなく話を終えさせていただく。
 

執筆者:六条綾

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