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絵のある生活が売っていた話

六条綾 コラム

 絵のある生活をはじめてみませんか?  とあるショッピングモールでこんなキャッチコピーを見つけたとき、私の心の中にはどうにもすっきりしないものが溢れてきて、当時はどうしようもなかったものだが、それをようやく言葉にできそうな気がするので、断片的になってしまうかもしれないがここに書いていこうと思う。

 そのショッピングモールにはちょっとしたイベントを行うことができる吹き抜けの広場のようなものがあり、そこに簡易ステージを設営することで芸人やミュージシャンのライブなどを行うことができるようになっていた。その他にもちょっとした展示会のようなものが催されることもあり、私が訪れたときにはそういった目的でスペースが使用されていた。それが冒頭の「絵のある生活をはじめてみませんか?」に繋がってくるというわけだ。

 そこではラッセンなどを中心に美術作品が展示・販売されており、それなりの人で賑わっていた。そこに少し顔を出していると、当然のように販売員が声を掛けてきた。奥の商談スペースに目をやると、小金持ちっぽい中年夫婦が商談中らしかった。

 私は購入するつもりはなかったが、販売員が熱心に話しかけてくるので、間を繋ぐために、なんとなく次のような質問をした。

「ここで売っているのは絵ですか?」

 その質問に販売員は少々面食らったようだが、すぐに笑顔になって「絵ですよ」と応え、絵のある生活の良さを流暢に話し始めた。おそらく、説明に関するマニュアルがあるのだろう。絵のある生活の豊かさを語り終えたあと、私の興味があまりそこにないことを感じ取ったのだろうか、今度は自分たちの販売しているレプリカがいかに高度な技術で作られているのかを語りだした。

 その説明が一段落したころ、私は胸のうちにもやもやを抱えつつも「もう少し考えさせてください」と言ってその場を去ることにした。

 

 さて、このもやもやの正体は何かというと、ちょっとした矛盾(のようなもの)だと思われる。

 現代社会において、こういったイベントで販売されているのは原画の場合もあるが、多くの場合は高精細なプリントであり、私が出会ったそれも非常に高度な技術で作られた複製、印刷物であった。

 さて、ここで考えなければならないことがある。プリントも図像という意味では「絵」に違いないだろうが、それは絵画的な意味合いの「絵」とは区別されるべきものなのではないか、と。もしそうだとすれば、複製を売りながらも絵画というニュアンスで「絵」という言葉を使っている販売者の中には矛盾が生じているのではないか。

 あらかじめ断っておきたいのだが、なにも私は複製を高い値段で売ることに問題があると言いたいわけではない。印刷の技術、転写する素材などのコストを考慮すれば、それ相応の値段がするのは当たり前だと思うし、私自身もよほど気に入ったものであれば納得する範囲でならお金を払いたいとも思う。

 また、もしその「絵」がネットを検索すればすぐに見つかるようなものでも、それなりの大きさで物質的な存在感を持ったものとして目の前にあったときの迫力は特別なものである。そのことは今までの経験からも十分理解しているつもりだ。

 しかし、それだからこそ、それがいわゆる原画を目の前にした体験とは似て非なるものだということも理解しているつもりだ。意図的に混同しているのか、それとも販売者たちもそのことに無自覚であるのかはわからないが、そこが曖昧なままでプリントが販売されていたことにもやもやを感じてしまったのだと思う。

 結局のところ、絵のある生活とは何か素敵なものを自分が買ってそれが家にあるという満足感を得る生活なのではないだろうか、などと考えつつ、自分の殺風景な部屋の壁を眺めるばかりの生活である。

 

 執筆者:六条綾

(c)午前3時の六条会