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六条歌会に参加してきました(ステマ)

 みなさまごきげんよう。
 筆名が西尾維新のキャラみたいなことでお馴染みの六条愛理(ろくじょう・あいのことわり)です。
 本日は六条くるるの主宰する結社、六条会の歌会に参加してきた様子をレポートしようと思います。

 他の結社の歌会にお邪魔したことはないのですが、六条会のものはもしかすると少し変わっているかもしれません。
 深いレベルでの意見交換をするために人数の上限は6人とし、参加者はそれぞれ1首あるいは2首ずつ詠草を提出します。
 参加者は歌会の開始時にそれらの歌がプリントされたものを受け取るのですが、それと同時にすべての歌に対する六条くるるの簡潔な評が書かれたものも手渡されます。これは他の歌会ではあまりないことではないでしょうか。
 歌会が始まるとその評を補足しながら六条くるるが述べる時間が設けられます。六条歌会においてはこの評が議論の起点となります。

 他の歌会ですと各人が自由に評を述べ合うのでしょうが、六条歌会では六条くるるの評という議論の起点があるため、参加者は自由に意見を述べることができません。これはどういうことかというと、参加者は六条歌会の中で一種の演技のような振る舞いをするということです。
 参加者は、たとえそれが自分と意見と寸分違わずに同じだったとしても、起点となる評(あるいは意見や解釈)について全力で反論することを求められ、いわばディベートのように、とある意見の代弁者としての与えられた役割を歌会で演じることになります。

 なぜこんな息苦しいことをするのかというと、自分のものとは違った視点から歌を解釈する状況を生み出すためのようです。
 普段、自分では強く意識していなくとも人は「自分らしい」考え方をしてしまうもので、それはすなわち「自分らしい」考え方以外を自然と切り捨ててしまっていることでもある、というのが六条くるるの主張であり、歌会に自分らしい意見のままで参加するのは一種の思考停止をしているようなものだとさえ言ってしまいます。

 こういった理由から六条くるるの起点となる評が歌会の冒頭で提出されるにすぎないので、彼の意見はなにも正しかったり権威があったりするような評では決してありません。実際、私が参加したときも六条くるるの評はけちょんけちょんに反論されていました。ちなみに、六条くるるが半泣きになったあたりが区切りとなります。

 六条歌会は基本的に非公開ということになっているので詠草や議論の内容については詳しく言及できないのですが、今回のレポートである程度は雰囲気を感じ取れたと思います。
 これを参考に次回以降の六条歌会に参加するかどうかを決めてくだされば。6人以下と人数制限あるのに6人集まったことないからね。

 執筆者:六条愛理

(c)午前3時の六条会