恋愛イデオロギー

 この世には恋愛を主題にした作品が溢れている。その理由は単純明快で、作品を作っている人間の多くが恋愛馬鹿であるというだけだ。もちろん、恋愛 馬鹿でない作り手もいるわけだが、そういう人間すらも恋愛の話ばかりを作る。恋愛馬鹿が自分の思いを広めようとして恋愛作品を作るのは仕方ないとして、そうでない人間までも恋愛作品を作り出すのは何故だろうか。
 世間に流布している作品というものは大抵の場合、作られてそれで終わりというわけではない。作られた作品は世の中へと向けて発表され、人々の評価に晒さ れる。多くの作品はその過程において金銭を得ることを目的としているのが普通である。

 ならば、多くの人に受け入れられるものを作らなければならないが、多くの人に受け入れられるであろうものを繰り返すだけでは受け手の側も飽きてしまうので、新奇性と陳腐さのバランスが非常に難しくなってくる。ここで求められるのは、受け手の多くに関心がある一方で、何度繰り返されても飽きられないものであるわけだが、それこそが恋愛だというわけだ。こういうわけで、世の中には恋愛ものが溢れているのだと思われる。

 しかし、恋愛ものばかりが世に溢れているカラクリが判明したところで、どこかすっきりしない気持ちであるのは、私だけではあるまい。世の中には掃いて捨てるほど、否、捨てきれないほど恋愛ものが溢れており、その中にはどうにもお粗末なものが一定の割合で存在している。一口に恋愛ものといっても様々で、恋愛関係をストーリーの中心に据えてじっくりと描写するものもあれば、冒険譚の中での副次的要素と して扱われるものもある。
 そういった様々な物語に出会っていると、どうにも登場人物の恋愛関係が浮いて見えるというか、とってつけたような印象を覚えることがある。物語の展開上、全く必要ではないし、むしろ邪魔になっている恋愛要素が持つ意味はすでに述べた通りである。

 ならば、それが作品内に混入してしまうことは仕方ないとしても、もう少し自然な作品に仕上げることはできなかったのだろうか。こういったことが起こってしまう原因としては、脚本が悪いということもあるだろうが、 それ以上に無理矢理恋愛要素をねじ込んだ、ということが挙げられるのではないだろうか。
 商業的な理由から恋愛要素を作品に含めなければならない、ということはクリエイターならばわざわざ言われるまでもなく理解していることではあるのだが、 やはりクリエイター個人としては、世間の評価や売れる作品とは全く違う軸によって作品を制作したいという想いがあって当然である。そうすると、作品の制作費を出資する側との衝突は避けられず、その結果、恋愛要素が作品を歪めたようなものが世間にアウトプットされてしまうのだ。
 こういった例においては、恋愛は作品を歪めてしまう強大な観念として作用していると考えられる。これこそがこの文章で取り上げるつもりである恋愛イデオ ロギーである。

 しかし、これにはすぐさま以下のような反論が寄せられるだろう。曰く、恋愛は一種の権力として機能しているが、その統治が受け入れられている以上、ヘゲモニーと言うべきではないか、と。その意見にも一理あるが、ここではイデオロギーやヘゲモニーに関する詳細な解説をするつもりはないし、する必要もない。恋愛は、少なくとも私にとっては、イデオロギーである。支配的で、暴力的なまでに人々を考えを規定するものがイデオロギーではなくてなんだというのだ!
 人々が自分勝手に恋愛に耽溺しているうちは、それは個々人の自由であるし、好き勝手にしていればいい。しかし、物事の判断をそのイデオロギーに委ねて、 なおかつそれが「普通」の考えであるかのように押し付けられるのは非常に耐え難い経験である。ヘテロで、恋愛を毛嫌いしているわけでもない私でもこれほど苦痛なのだから、恋愛イデオロギーに押しつぶされそうになっている人の胸中は、正直なところ、私の想像力では全く推し量ることができほど辛いのではないだろうか。
 むろん、恋愛というのは作品の商業上の理由から持ち込まれたイデオロギーであり、必ずしも悪意によってなされている行為でないことは理解できる。だが、悪意がなければ何でも許されるというわけではない。

  先日、姪っ子とジブリのアニメを見る機会があった。『借りぐらしのアリエッティ』である。面倒なので詳しくは説明しないが、借りぐらしという種族で人間の 家の片隅に住んでいる小人の少女・アリエッティと病気の療養のためにその家に住むことになった人間の少年・翔が交流するという物語である。借りぐらしは人間の目を盗んで人間の家から日用品などを拝借して生きているため、住んでいる家の人間に見つかってしまうことはご法度であり、人間に見つかりそうになると 別の家へと移り住むことになっている。そのため、物語の終盤ではアリエッティは翔の住む家、つまりは彼女が住んでいた家を出て行くことになるのだが、この 展開を示唆する煽り文が「二人の恋の行方はどうなってしまうのか?」というものであった。
 私としては、異種族とも偏見なく心を通わせる少年と種族の掟にとらわれない少女の交流に、純粋な少年少女の心の美しさを感じたり、反対に浮き彫りになる 大人の醜さを感じたりする映画だと理解していたために、この煽り文には随分と面食らってしまった。

 こうした煽り文を生み出したのは、言うまでもなく恋愛イ デオロギーの作用である。この例だけにとどまらず、物語の中に男女が登場するだけで、すぐさまその関係性を恋愛と言い換えてしまう例のなんと多いことだろ うか!

 これはまだフィクションであったからよかったものの、当人たちが自分たちの関係を把握しきれていないうちに、その関係を一方的に恋愛だと規定しまうのは、たとえ無意識に行われたとしても洗脳となんら変わりないことであり、それを受けた少女少年からすれば、価値観を強制されるというトラウマにもなりかねないことである。

 人間関係とは、それが年頃の男女のものだとしても、恋愛という単一のイデオロギーで説明できるほど単純なものではないはずだ。それなのに、それは恋愛で あるというイデオロギーを受け入れ、何事もなかったかのようにそれを承認し、そのイデオロギーを再生産してしまう人があまりにも世の中には多すぎる。しかも、それが無自覚であるだけに余計に厄介であることは改めて言うまでもあるまい。そういう意味では、やはり世の中には恋愛馬鹿しかいないのである。

  最後に、この文章を書いている私、六条愛理すらも恋愛イデオロギーを批判するあまり、恋愛イデオロギーが強固な価値観であるという事実に対する認識を再生産するという行為をいつの間にか繰り返してしまっていることには留意すべきである。恋愛というその関係性の力学からは容易には逃れられず、拭い去れずにまとりわりつく価値観であるからこそ、私はこれをイデオロギーと呼ぶのだ。

 

 執筆者:六条愛理

(c)午前3時の六条会