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自歌自注は悪なのか(追記あり)

 自歌自注については賛否があり、それぞれに違った意見を持っているだろうから、僕の意見もそうした一つのものとして読んでいただきたい。同意するのも反論するのも無視するのも読者の自由である。

 結論からいうと、僕は自歌自注には消極的に賛成である。具体的には、作者は求められればできる程度には自歌についての意見を持っているべきであるが、それを積極的に言いふらすのはよろしくない、という立場であるといえよう。

 自歌自注を否定する人たちは、作者の自歌自注がその短歌に関する解釈のうちで最も正しいものである*1、とされることを問題視しているように思われる。他の様々な解釈の可能性を作者の自歌自注が潰してしまうことを危険視するのは、短歌の自由な読みを守るためには当然必要なものだと考えられる。

 しかし、こういった意見の中にも度がすぎるものが見受けられることがある。以下のような意見を目にしたことはないだろうか。

「作品は発表された時点で読者のものなのだから作者が作品について語るべきではない」

 僕が寡聞にして知らないだけで、近代以降の短歌解釈論ではスタンダートな意見なのかもしれないが、まるで小林秀雄のようだな、と色眼鏡で見てしまう六条くるるは坂口安吾びいきなのである。

 閑話休題。上記の意見に関しては僕も同意するところがあるので、それを全否定するつもりはない。だが、この意見に便乗して手抜きをする作者が出てくることを懸念せずにはいられないのだ。

 どう解釈するかは読者の自由だから、という言葉を免罪符にして、自分でも説明のつかぬような曖昧模糊とした表現を堂々と世間様に垂れ流している作者を見たことがないだろうか。僕はそういった人間に対して怒っているのだ。

 もちろん、短歌を構成する言葉たちは一意的ではなく、何層にも意味が重なってできており、なかなか説明のつかないような部分もあって当たり前である。しかし、そういった部分も悩みぬいたゆえにそういった表現にせざるをえなかったとか、そのときに自分の中に生じた韻律がその言葉を選んでしまったなど、説明できないなりの説明というものがあるはずである。

 なのに、そこまで深く考えをすすめもせず、したり顔で「読者の自由だから」と言っているやつのことを思うと、僕は腹が立って仕方がないのだ。読者に説明できないものを差し出すな、と言いたい。そんなやつは「何の料理ですか?」と聞かれて「わからないですけど、好きな人は好きな味だと思いますよ」と返す料理人のようなものだ。

 作品が読者のものになるというならば、作り手はもっと受け手のことを考えて作品を送り出していただきたい。こうやって偉そうなことを言っている僕は、いつだって読者が傷つくように配慮している。「何の料理ですか?」と聞かれれば「毒が入ってますよ。見ればわかるでしょ?」と返すような短歌ばかりですけど。

 

【追記】

 僕が作者の自歌自注を権威付けすることに反対する理由の一つは、作者の意見とて他の読者の意見と同じく、その作品に関する一つの意見にすぎないから、というものである。

 これは作者も自分の作品の読者である、という意見とは似て非なるものである。なぜならば、作者は作品が公開される前から作品に接することができるばかりか、それを修正できる立場にあるという点において、他の読者とは区別されるべき特別な存在であるからだ。

 作者の意見はたんなる一つの意見にすぎないが、他の読者の意見と混同せず、より慎重に扱うべきものである。そのため、作者も一人の読者である、というのは作者の意見の特別性を見落とさせてしまうため、あまり良い仮説であるとは言えないだろう。

(2013/10/03 23時現在、本論と追記との整合性はまだ未チェックである)

*1:ここでいう「正しい」は「権威のある」「説得力のある」と置き換えることも可能である。

(c)午前3時の六条会