【書評】木下龍也『つむじ風、ここにあります』は不完全である

 秋の夜長は読書とブログ というわけで、木下龍也『つむじ風、ここにあります』という歌集が不完全である、という書評を書きたいと思う。

つむじ風、ここにあります (新鋭短歌シリーズ1) (新鋭短歌 1)

 あらかじめ断っておくと、僕はこの書評において彼の歌集がよくない、と言いたいわけではない。世間での評判の如く評価されて当然だと思っているし、僕自身もぼろぼろになるまで愛読したい一冊である。

 では、なぜ彼の本に対してネガティブなタイトルの書評を書くのか。それは評価しているがゆえに、少しだけ物足りないというか、「おしい!」と思ってしまう箇所がこの本には含まれているからだ。

 木下龍也の短歌は他の短歌と比べて良い意味で異質なものである。詩的すぎず、それでいて散文的すぎず、わかりやすいけれども自分で知らなかった世界を教えてくれる――そんな不思議な魅力が彼の短歌には詰め込まれている。

 その独特の雰囲気、あるいはオーラのようなものは他者の短歌と比べたときに一層際立つものだ。たくさんの作品に囲まれても埋没しないのは、彼の短歌が一首としての美しさ、完成度を持っているがゆえの必然と言える。新聞歌壇や他の投稿欄などにおける彼の短歌の輝きは特筆すべきものがあると思う。

 しかし、それは同時に彼の短歌の弱点でもある。その弱点とはどういったものか。結論から述べるならば、一首としての自立性、言い換えると一首ごとの個性が強すぎるがために、一冊の本に大量にまとめられたときに全体としての収まりが悪くなるのだ。

 多くの歌集同様、この歌集もいくつかの連作から成り立っている。簡単に説明しておくと、連作とはおおむね5首以上の短歌、多ければ50首以上もの短歌を並べる順番も考慮しつつ編集したものである。タイトルが付与されたりすることもあれば、一つのテーマに沿って歌がまとめられることもあり、一定量以上の短歌を発表するときに用いられるポピュラーな形式である。並べる順番によってはストーリーが浮かび上がってくるように見せることもできるので、そういった部分での創意工夫も必要となってくる形式でもある。

 最終的にすべての短歌がいずれかの連作に組み入れられるとしても、最初から連作の一部分として詠まれた歌とそうではない歌では、違うところが出てきて当然である。連作のために詠まれた歌は、他の歌との関連性において鑑賞されることを前提としているので、一首のみを取り出したときの個性は弱くなりがちである。そのぶん、連作全体の調和を高めることができる、という利点はあるので、どちらがいいとも限らないし、その議論は本題から逸れるものなので、ここでは深く追求しない。

 何が言いたいかというと、先ほど述べたことと関係してくるのだが、木下龍也の短歌はそれぞれの個性が強すぎるため、連作には不向き(なものが多い)ということだ。

 繰り返すが、彼の短歌は独特の光を放っており、それは煌々と明るいわけではないものの、その特徴的な光は人を惹きつける力を持っているものである。そんな短歌が歌集にたくさん詰め込まれているのだから、この歌集も素晴らしいものに違いない。そう思って読むと、期待していたほどの魅力を感じなかった――これが僕の初読の祖直な感想である(もちろん、期待が高すぎたとか、厳しく採点しすぎているということも関係しているのだが)。こういった感想を僕が持ったのは、それぞれの歌の個性がお互いに邪魔しあって、連作の中で、あるいは一冊の本の中で不調和が生じているせいではないだろうか。

 もちろん、このことも木下龍也の短歌の個性であるからむやみに否定するべきではない。だが、この本を出した出版社、そして監修した人間は彼の短歌のよりよい見せ方をもっと追求できなかったのか、とも思ってしまう。だが、それは事実上かなり難しかったのだろう。というのも、この歌集は新鋭短歌シリーズのラインナップの一つとして企画・出版されているため、本のデザインやページ数、その他もろもろについてシリーズでの体裁を整えるためにかなりの制約があったと考えられるからだ。ならば、今のかたちが制約下でベストを尽くした結果である、と考えるべきだろう。

 残念ながら、すでにこういうかたちで出版された本をもっと理想的なかたちに作り変えることはできない。ならば、本ではなく、読者の態度を変えてみてはどうだろうか。本は変わらずとも、本への接し方を変えることで、よりよい読書体験が得られるようになる可能性は十分にあると思う。

 街にあふれる雑な活字の群れに疲れきって帰ってきた自室にて、寝る前にこの本を開いて読む一首は、彼の短歌をもっとも輝かせる読み方なのかもしれない、とふと思った。

 

 執筆者:六条くるる

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