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詩的飛躍私論

六条くるる 短歌 コラム

 先日から詩的飛躍について考えているのだが、なかなか考えがまとまらないので、いままでのところをどうにかまとめるようにして書きとめておく。

 …

 詩的飛躍とは誰が言い出した言葉なのか知らないが、それなりに人口に膾炙しているのはググル様に聞けばすぐにわかることである。この言葉の全貌は分からないにしても、その言葉の便利さや面倒くささをどうにかこうにか解明しようとして、考えたことをつらつらと書いていく。

 僕がまず言いたいのはこういうことだ。本人としては詩的飛躍のつもりなのかもしれないが、詩的自家用ヘリ移動くらいのヘンテコなことになっている短歌があるのではないか、と。

 

 たしかに、詩的飛躍の魅力の一端を担っているのは、日常的に使う言葉の常識から距離があることにある。電車を待つホームにて「黄色い線の内側でお待ちください」という注意書きを見たときに詩的興奮を覚える人はほとんどいないだろうことを考えれば、詩とは日常言語から「異化された」ものであると考えて間違いないだろう。

 しかし、距離がありすぎるのも問題である。距離がありすぎると、それはもはやただの意味不明な記号の羅列になってしまうからだ。これは僕が考えた言葉ではないのだが、「わからないけどわかりそう」というのが詩的飛躍の必要十分条件なのだと思う。

 反対に、日常言語との距離が近すぎるのも同様に問題がある。詩的飛躍によって飛び越えられるかどうかギリギリの距離を飛び越えるからこそいいのであって、軽く跨いで渡れたり、そもそも距離が開いていることに気付かれないようなものは魅力的な詩の言葉とは言えない。

 だが、厄介なことに詩的飛躍をしているようには思えないのに、つまり、日常言語と地続きのようなのに、詩の言葉として魅力的なものがあるのだ。

 詩というのはなにも日常言語と異なるものだから魅力的なのではない。日常言語と距離があることによって、日常を離れた魅力的な世界を垣間見せてくれるからこそ魅力的なのだ。ならば、日常言語であっても、その着眼点ゆえに読者が今まで知らなかった光景を見せてくれるような言葉であれば魅力的になるのは当然である。

 

 こういったことを考慮しつつ、「イミフメイでキモイ!」ものではなく、「ミステリアスでステキ!」な言葉を紡げるように各人頑張っていただきたい。

 

 執筆者:六条くるる

(c)午前3時の六条会