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食品偽装問題について思うこと

 2013年11月現在、世間では食品偽装問題が大きな話題を呼んでいる。詳しくは各人で調べてもらえばわかることなのでここには書かないが、大手百貨店や有名ホテルまでもが原材料などを偽っていたことは人々に大きな衝撃を与えたようだ。

 一方で、その偽装技術を評価してはどうか、という声も控えめに聞こえてくることもまた事実である。小生の見聞きした例だと、車海老と偽って比較的安価のブラックタイガーという海老を食材にしていた某ホテルの料理がミシュランで星を獲得していたというのだ。

 たしかに消費者を騙したことは褒められたことではないが、プロをも騙しとおせてしまえば、それは事実上、ほとんど嘘ではなくなるのではなかろうか。たしかに本来よりも高い料金を請求していたのだろうが、それは技術料と考えれば納得できない話ではないはずだ。

 

 だが、こういった話をするとき、タブーとなるのが「騙されたほうにも責任があるのではないか」といった言説である。いじめられる側にも問題がある、という言説と同様に、弱者に配慮しないこの言葉は基本的には発せられるべきではない、と小生は考えている。

 ここで、基本的に、と言ったのはそうも言っていられない場合があるからだ。我々が社会問題としての弱者に接するときは、社会の価値観や方向性を代弁するかのごとく、「騙されるほうに責任がある」とは決して言うべきではない。繰り返すが、決して言うべきではない。

 しかし、社会のシステムがいくら弱者を保護するように努めたとしても、100%の人間を救うことは、残念ながら難しいだろう。するとどうだろう。救いの手からこぼれ落ちてしまった困難な立場にある人にとっては、我々の道徳的に正しいだけの発言は虚しく響くばかりで、何の助けにもならない以上に、悲しみや怒りを増幅させるだけかもしれない。

 

 そうした状況を改善することは簡単ではないし、みんながそれぞれ困難を抱えて生きているのだから、ある程度は諦めなければならないこともあるだろう。しかし、「騙されるほうにも責任がある」と自戒として言い聞かせたり、あるいは軽率な人間へと助言することは、より最悪な事態を引き起こさないために役立てることもできるのである。

 この社会では何か事件が起こるたびにその原因をすべて排除してしまおう、というきらいがあるが、すべてを根絶することは到底不可能なのだから、上手に共生していく方法を探るほうがいいのではないだろうが。政治には、この社会を天国にするものではなく、以前よりも少し生きやすいものにする役割を担っていただきたい。

 

 執筆者:六条捻

(c)午前3時の六条会