情弱って言うほうが情弱

 情弱、という言葉がある。

 情報弱者の略語であり、有益な情報を知らないために損をしてしまっている人を揶揄するときなどに用いられるネットスラングである。

 たしかに、この世の中には情報を知らない(=知識がない)ために大損をしてしまうことがある。株式投資で資産を増やそうとした人物が、投資のセオリーに関する一切の勉強をせずに資産を溶かしてしまった場合、その人が情弱と罵られるのは仕方がないように思われるし、そう言われなくとも自分の勉強不足を恥じるべきだろう。

 しかし、この言葉は上記の例などの範囲にとどまらず、かなり広い範囲で使われているのが現状である。日常会話やSNSなどでこの言葉に出会う人もおそらく相当数いるだろう。

 では、日常生活でも用いられる程度には広まっているにも関わらず、私がこの言葉をネットスラングと表現するのはなぜか。それはこの言葉に含まれる揶揄というニュアンスがもっとも如実に表出しているのがインターネット上だと考えているからである。

 情弱の反対語としては、情強というものがあるのだが、この情強サイドの人間の一部が情弱を馬鹿にしている、という構造があると考えて大枠としては問題ない。現代社会には一見しただけではどういったシステムになっているのかわかりにくいサービスなどが多く、いわゆる情弱の人間は知らず知らずのうちに損をしてしまっているケースが少なからずある。こういった状況はサービス提供側の宣伝が下手なこととサービス利用側のリサーチ能力が欠けていることの両方から引き起こされることもあるが、悲しいことに、サービス提供側の悪意から引き起こされることもある。搾取というほどあからさまではなくとも、情弱な人が損をすることを見込んでいるようなサービスやシステムは一定数存在している。

 情強サイドの人間はこういった悪意を見抜き、それを糾弾するのだが、その過程において一部の人間がその悪意に気付かない人々を情弱として見下すことがある、というのは先ほど述べた通りである。

 

 だが、情強とはそれほどえらいものなのか。情強のつもりでいた人間が、実は情報に踊らされていたというのもよくある話である。

 実際に、真の情報強者というべき人々はごく少数存在しており、社会の重要な方向性を決定付けたり、あるいは巨万の富を築いていたりするするが、世間の多く存在する「自称・情強」の人々はもちろんそういう立場にあるのではない。インターネットで検索すればわかるような知識を手に入れたばっかりに、まるで自分が無敵になったかのような偽者の全能感に酔ってしまっただけの存在にすぎない。

 そもそも大衆とはそういうものだが、そういうものゆえに情報に踊らされた結果として、自分の小ささを忘れてしまうものでもあるから、この記事をふとした瞬間に思い出してもらいたい、と思う。

 

 執筆者:六条捻

(c)午前3時の六条会