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短歌を短歌たらしめるもの

 先日、「短歌/非短歌の境界(http://rokujokai.hatenadiary.jp/entry/20131130/1385818893)」という記事を書いた。これはそれに関する補足のようなものなので、ざっくりとそちらに目を通してから読むことをおすすめする。

 

 短歌を短歌だと規定するのは歌壇というシステムである、という仮説は美術館にあるものが美術であるといった仮説のようなもので、正直なところ主張している本人もそれほど妥当性があるとは思っていない。その証拠に、そういった文脈で拾いきれない短歌の具体例を思い浮かべるのは誰にとってもそう難しいことではないはずだ。

 では、どうしてそういった極端な主張をしたのかというと、短歌を短歌たらしめているのは短歌という要素だけではない、ということを伝えたかったからだ。これだと何のことかわからないだろうから、少し具体的に言い換えてみよう。

 ある音の集合(あるいは文字列)を短歌というとき、その短歌らしさはその言葉の内的な要素だけではなく、発表される場所や他者による承認といった外的な要素によっても規定されるということだ。

 我々が短歌を目にするとき、上記のうち後者の条件が満たされている場合はほとんどなので、自然と前者ばかりを気に掛けてしまいがちである。だが、短歌らしさとはその両者が揃ってはじめて認められるものなのだ。

 たとえば、短歌の総合誌に掲載され、「大胆な破調を取り入れた1首」と評された歌があるとしよう。その活字とまったく同じ文字列を歌壇とは無縁のとある中学生が、授業中の落書きとして、たまたま作ったとしたらどうだろう。彼(女)はそれが短歌だとは意識していないし、一生それが短歌だと気付くこともないとすれば、それはもはや短歌とは呼べないだろう。しかし、一方ではそれは歌壇で様々な評がなされる短歌として受け入れられているのだ。そういう意味において、短歌を規定するのはシステムであると言えるのである。

 もちろん、第三者がそれを短歌として発見することは可能だろう。しかし、それを発見して短歌だと主張するのが、六条くるるである場合と穂村弘である場合だと、後者のほうが明らかに説得力と権威を持つことは考えるまでもない。

 

 短歌には内的な美と呼べるものが少なからずあるものの、それが唯一の短歌を成立させる要素だ、といったナイーブな考え方をしているのであれば、少しだけ視点を変える必要があるだろう。短歌を短歌たらしめるものについて熟考することが、そのアイデンティティを強くすることに繋がるのだから。

 

 

 執筆者:六条くるる

(c)午前3時の六条会