ジョークとグローバル化

 日本人にはユーモアのセンスがないと言われて久しいが、時折この言葉の意味すら勘違いしている人もいる始末であり、そんなことだからユーモアのセンスがないなどと言われるのだろう。日本人は兎に角スペック主義で、何でも彼んでも能力が第一だと妄信しているところがある。そのためか、ユーモアのセンスというと、面白いユーモアを創作する能力や才能のように考えてしまいがちで、日本人にはユーモアのセンスがないとか言ってくるアメリカ人のアメリカンジョークだって面白くないではないか、などと的外れな反論をしてしまうこともしばしばである。

 ではユーモアのセンスとは何か。それはユーモアを理解し受け入れる心、ユーモアの精神のことである。つまり、ユーモアのセンスとユーモアの面白さは必ずしも相関関係があるわけではないし、小生もアメリカンジョークはあまり面白くないと思うが、盛んにアメリカンジョークを言う人間にユーモアの感覚が欠如しているとは思わない。

 話を先に進める前に、諸君がしているであろう勘違いをもうひとつ正しておかなければならない。ジョークが面白くないことはしばしばありうるが、そもそもジョークは面白くなくとも構わないものである。もちろん、笑えることに越したことはないだろうが、笑えないからといってそのジョークに価値がないとは言えないことには留意しておくべきだろう。こういった勘違いが生じてしまうのも日本人のスペック主義のせいである。相手を笑わせるという効果を発揮し損ねているものはスペックが低い、つまり価値がないという短絡的な思考による判断には呆れてものも言えないと言わざるをえないと言うことができる。これ、なかなかにユーモラスな言い回しじゃないかね?

 閑話休題

 ここまでのこの文章の流れと表題からして、欧米風のユーモアを日本人も身につけて円滑なコミュニケーションを行うべきだ、それがグローバル化なのだ、という論調を予想する読者がほとんどだと思われるが、残念ながらそうではない。どちらかというと、グローバル化などという珍妙なものには反対とまではいかなくとも、賛成しかねる、というのが小生の立場である。別に日本人はユーモアのセンスなど身につけなくとも良い。欧米圏の人間とのやりとりが多い人であればあるに越したことはないだろうが、一生日本から出ないつもりの人間がわざわざ身につけるようなものでもあるまい。

 しかし、グローバル化は話が別である。そんなものが必要のなさそうな人まで声高にグローバル化と叫ぶ。この奇天烈な風景は、小生の身の回りにも溢れている。たとえば、某駅前に個人経営の英会話教室があり、宣伝の小さな看板を出している。そこには"Are you GLOBAL?"と書かれてあった。小生、英語を専攻していたわけではないものの、大学院を修了しているので、この短い文を「あなたは球形ですか?」とか「あなたは包括的ですか?」などと訳すことは決してない。「君って地球規模だよね?」と訳すに決まっている、などと冗談を差し挟みたくなる程度には珍妙なフレーズである。まあ、ネイティブがこういう表現をしないこともないようだが、看板製作者の意図としては、グローバル化の時代なのだから英語くらいは身につけておかなければならない、という煽り文句のつもりなのだろう。

 小生はこういうものを見かけるたびに、浅墓なり、と口にしてしまう。ここにも日本人らしいスペック主義が見え隠れしており、グローバル化という世界の変化に対して、英語という武器さえあればどうにかなるだろうという浅墓な発想が見え隠れしているのが実に滑稽である。そういったグローバル化の現場で活躍している人間の声に耳を傾ければ、重要なのは英語の能力というよりも慣れない土地でも積極的に動けるかどうか、というバイタリティであることはすぐにわかることである。だいたい、本当にグローバル化の波に晒されれば、英語が全く通じない地域に行くこともあるのだから、現地の人々が英語を話せない以上、現地語を学ぶしかないことは考慮に入れていないのだろうか。また、日本をビジネスの相手として重要視している地域では先方に日本語話者がいることもあると聞くがこれは如何に。

 サテ、話を英語に戻すとしよう。先ほどのユーモアのセンスの話からもわかったように、いくら英語というスキルがあっても、欧米人との対話における精神性が伴っていないのだから、英語ばかり話せたところでコミュニケーションはうまくいくまい。兎にも角にもやたらめったら英語を学びたがる日本人というのは、銃社会においてライセンスを取得し、購入資金をため、銃を所持したものの、いざというときに撃つための訓練や銃の点検整備をしていない人のようである。もっとくだけた例を挙げるとしたら、攻撃力を上げるために両手に剣を装備しているものの、二刀流のスキルがないので結局片手剣のようになっているロールプレイングゲームのキャラクターのようである、といったところだろうか。

 ここで再びユーモアのセンスについて考えてみたい。ユーモアがコミュニケーションの円滑剤になるというのは良く聞く話ではあるが、そのことを実感として理解している日本人は実に少ないように思われる。実のところ、ユーモアのセンス、相手のユーモアを理解しようという精神は、相手の話を聞こうとするだけではなく、相手の意図まで推し量ろうというものである。いわば、相手に対して歩み寄ろうという姿勢であり、排他的なウチとソトの意識が抜けきっていない日本人にはなかなか馴染みにくいものだろう。しかし、コミュニケーション、相互意思疎通にはこのような姿勢が不可欠である。最終的に同意するかは別にしても、相手の話を聞いてみることが必要なときはそれなりに存在する。こういった態度はユーモアの精神によって培われたものではないだろうか。もちろん、背景には他者の自由を尊重しようという意図もあり、ユーモアの精神とはある意味、心の広さにも似ているところがある。むろん、ここにはお前の自由を認めるのだから俺の自由を認めろ、という高慢さが見え隠れしているのだが、それでもある種の心の広さには違いあるまい。

 イギリス王室の人々は、自身を対象にしたかなり失礼なジョークだろうとそれにジョークで応じたりして、決して激昂したり無視したりすることはないという。これは単純にジョークを楽しんでいるというところもあるだろうが、ジョークに対して怒ったり機嫌を損ねたりすると、ジョークを理解する心がないとみなされるため、自身の保身のためにやっていることであるらしい。だが、こういった政治的な目的のある身振りであっても、繰り返せば本人の実質に繋がっていくものであるし、王室の人々のジョークに対する懐の深さ、および心の広さには小生、感心してしまう。

 ここまでのところジョークやユーモアのセンスを称揚するようなことばかり書いてきたが、個人的には日本人にこれが欠けていることが悪いことだとは思わない。小生はグローバル化を目指すというのであれば、コミュニケーションツールのグロバールスタンダードとも言えるユーモアも身につけるべきであろうと言っているだけであり、それが嫌なのであれば、グローバル化などというものを囃し立てるのもやめるべきであると言っているだけだ。しかし、時代の情勢がグローバル化を求めている以上それに逆らうことはできない、というのであれば、もはや小生にはどうしようもない。グローバル化とやらを進めればいいし、グローバル人材を目指して英会話教室に通えばいい。ただ、その過程において、ユーモアの感覚を見下して無視するような狭い心を捨て去る努力もしてほしいと思う。そして他者のジョークに対する寛容な心を身につけていってほしいとも思う。だいたい、文化圏が違えばユーモアを理解できないのは、頭の回転が遅く教養がないと証拠だと思われるのだから、リスクヘッジの意味でもユーモアに歩み寄ろうとすべきではないだろうか。

 そしてユーモアに親しんだ結果、小生のジョークを面白くないと冷たく言い放つ人々はもっと優しく接するようになってほしい。笑えないからといって小生のジョークを無視しないでほしい。「おや、今日はジョークの面白みを家に忘れてきたようだね」とかそういうことでいいから言ってほしい。無視されるのが一番傷つくのだ。諸君には他者の気持ちを思いやる心を決して忘れないでもらたい。

 

 執筆者:六条捻

(c)午前3時の六条会