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絵本の作者とは誰のことを指すのか

 今週のお題特別編「素敵な絵本」というわけで、掲題のようなことをカジュアルに語ってみたい。

 この問題は非常に根が深く、それは創作というものの概念が日々変化しているからこそ厄介なものである。

 ロマン主義的作者観、まるで作者が神であるかのように作品のすべてをコントロールしているという幻想は、今もまだ根強い。現代には著作権などの法的な問題があるとはいえ、他人の作品を参考にしたり、他人の手を借りたりしながら作品を作り上げていくことは決して珍しいことではない。最近、作者に関して世間を賑わせているたくさんの事柄は、その時代の法律や倫理観に反しているにすぎず、本来は創作の本質に近い行為なのかもしれない。

 

 一方で、そもそも一人の手で作り上げない、という作品群も当然存在する。具体例をたくさん挙げることはしないが、その中の一つが今回取り上げる絵本である。絵本においては、絵を担当する人間と文章を担当する人間が違っていることは決してめずらしいことではない。今回取り上げる酒井駒子さんは絵のみを担当することが多く、文章は他の作者に任せることがほとんどである。

 しかし、ほとんどということはゼロではない。今回、素敵な絵本として紹介したいのは酒井駒子さんが絵と文章の両方を手掛けた『金曜日の砂糖ちゃん』である。

 この作品の最大の特徴は、ほとんど色が使われていないところだろう。絵のほとんどは白と黒のみで描かれており、時折使われる赤も動物や植物の一部に用いられるだけで、絵に占める割合は極端に少ない。これはおそらく金曜日の砂糖ちゃんと呼ばれる少女の視点を読者と共有するためのもので、母親がモノクロである一方で、動物に色が使われているのは、大人と子どもの視点の違いを簡潔に示していると言ってよいだろう。この作品の最後において、金曜日の砂糖ちゃんが母親に連れられてお昼寝をしていた庭を出て行く場面も大人/子どもの世界の違いを示しているとも言える。

 ここで重要になってくるのが、この作品の大半は金曜日の砂糖ちゃんにしか感じることのできない、大人に見えないクローズドな世界を舞台としているということだ。そういった世界観を綿密に作り上げるには、作者一人による作業のほうが適しているのではないだろうか。

 無論、絵と文章を別々の作者が担当している場合でも、きちんと打ち合わせした上で作品を創るので、必ずしも世界観がちぐはぐになるわけではない。だが、排他的でクローズドな作品世界を創る場合に限っては、一人の作者によるほうがうまくいくケースがほとんどだろう。

 『金曜日の砂糖ちゃん』という絵本は酒井駒子さんだけではなく、出版社や印刷所の人たちによって今日の絵本のかたちになっているので、そういった人々の創意も無視することはできない。そういった意味では、「絵本の作者とは誰のことを指すのか」という問いに答えることは難しく、ほぼ不可能とさえ言ってよい。

 だが、こういった問いは何度も繰り返されるべきものであり、そのたびに思い出されるべきものでもある。良い作品というのは、その作品だけで終わらず、様々な影響を与えていくのが常であるが、『金曜日の砂糖ちゃん』も例に漏れずに問題を提起したり、人々に考えるきっかけを与える作品であり、その影響はこの記事を書くところまで届いているのだ。

 

(などと綺麗にまとまったような顔をして筆を置きたい)

 

 執筆者:六条綾

(c)午前3時の六条会