詩的に飛躍できない

 詩的飛躍という言葉を聞いたことがある。誰が言い出したのかは知らないが、Googleとかで検索してみると簡単に引っかかるのでそれなりに使われている言葉なのだと思う。

 どういった定義がされているのか、それ言い出したのは誰なのか、といったことは寡聞にして僕は知らない。そこで自分なりのざっくりとした解釈を言わせてもらうと、「読んだ瞬間に見慣れた日常から非日常に連れて行ってくれるような素敵なやつ」といった感じだろうか。

 言うまでもなく、詩の言葉とは僕たちが普段使っている言葉とは別のものであり、人によっては「異化されたもの」と呼ぶかもしれない。どちらにせよ、僕たちが日常会話などで使う言葉とは距離のあるものだと言ってよいだろう。

 しかし、距離があるといってもそれは各々のケースによってその距離がまったく違うことに注意しなければならない。日常の言葉の延長として理解できるものもあれば、まったく見聞きしたことのない異国の言葉のように暗号のようにしか見えない(聞こえない)ものもあるからだ。

 さきほどの詩的飛躍の話に戻ろう。詩的飛躍とは、程度に多少の差こそあるだろうが、上の分類では前者に該当するものだといえる。たとえ理解したり鑑賞するのが困難なものであっても、日常の言語とのわずかな繋がりを感じさせてくれる場合がほとんどであり、単なる雑音や単なるインクの染みにしか見えないという後者とは区別すべきものである。

 詩的飛躍によって谷を飛び越え日常生活では目にすることのなかった世界に辿り着く。それこそが理想なのだろうが、少なくとも僕は、そうではない例にぶち当たっては挫折することが非常に多い。

 どうしてこういったことが起こるのだろうか。僕の感受性、谷を飛び越える力が極端に低いので、谷底に落ちてしまうのだろうか。もちろん、そういったケースが大半だろうが、そうでないケースも少なからず存在する。日常とのわずかな繋がりさえ感じられない、つまりは谷の向こう側がまるで見えないためにそもそも飛躍できないというケースが。

 作者、あるいは作中主体は自分の創作した世界をよく見知っているので、多少の距離ならば軽々と飛び越えられるだろう。もしくは、普通には無理のある距離であっても何度も飛び越えているうちに簡単に飛び越えられるものになっているかもしれない。

 だが、読者はそうではない。作者にとっては詩的飛躍にすぎないものが、人によっては詩的断絶になりうるのだ。作中主体の日常茶飯事は読者にとっての非日常であり、それが憧れを抱けるほどの距離感のものであればよいのだが、あまりに遠くなってしまうと恐怖と拒絶の対象になってしまう。理解できないものに対する人々の反応は決まってそういうものなのだから。

 

 一方で、あまりにも軽々飛び越えられる谷も良いものではない。飛躍して飛び越えたという達成感、違う世界を見たんだという爽快感が得られないのもまた凡作である。

 雑にまとめるとバランスが大事とか、そういった話になってしまうものの、世の中の真理は概してそういうものであり、それではどうすればいいのだ、と頭を抱えているくらいならば、たくさん詠んでから厳選するほうがスマートなのかもしれない。

 つまらない短歌も必要なことがあるのだが、それはまた別の機会に。

 

 執筆者:六条くるる

(c)午前3時の六条会