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わかりにくさへの回帰―グラスリップ私論―

 グラスリップというアニメはわかりにくい。このことはグラスリップを見たことがある人ならばおおむね同意してもらえることだと思う。

 ここでいうわかりにくいとは、ハーモニーカット(止め絵)などの演出意図であったり、キャラクターの心情だったり、話の筋だったりを指しているが、そういった個別のことに対する考察には本エントリでは踏み込まない。各自、ネット上の考察を検索するなり、関連商品でのスタッフの発言を読むなりしてください。

 では本エントリがグラスリップの何について書くのか。それはこの作品をもう少し大きな流れに位置づけることで見えるものがあるのではないか、ということに他ならない。結論から言うと、この作品はわかりにくさへと回帰しようと試みて失敗した、というのが僕の仮説である。

 

(これ以降、あいまいな記憶を頼りに証拠もなくテキトーなことを書いているので、読者諸君によって脳内補完されながら読まれることを期待する)

 

 新世紀エヴァンゲリオン以降、投げっぱなしで受け手の解釈に全部任せますねーみたいな作品が流行った時期があった。ただ、投げっぱなしと言っても、きちんと箱に詰めた状態で投げられるものもあれば、個別に投げられたせいで散逸してしまったものもあり、状況は非常にカオスだった。

 こういった事態へと反動のためか、少しずつわかりやすい作品が増え始め、2014年現在では増えすぎてて大変なことになっている。もちろん、反動だけが原因ではなく、爆発的にアニメの放映本数が増えたことによって1本あたりに対する視聴者の関心が薄れたために難解な作品が避けられがちになったということもあるだろう。あるいは、作画技術の向上により絵の動きだけで十分に魅力的な作品が増えたとポジティブに考えることもできるかもしれない。

 こういった流れの中で、ヒット作を連発するP.A.Worksがグラスリップを製作したということを考え直すと、この作品はわかりにくさへの回帰を指向していたのではないか、と思えてくる。

 次から次とアニメが流れるように製作されては消えていく状況に対して、わかりにくさとか違和感――視聴者によっては不快感をきっかけとして作品に向き合う時間を持ってほしい、という製作陣の思いがあったのかもしれない。本編中でハーモニーカット(止め絵)が多用されるのも、一度止まってみることを促す演出だと解釈することもできる。書かないとか宣言しておいて結局書いているこのあたりの考察は、以下のまとめからパクリですので、正確には僕が書いているわけではない、と補足しておく。

 

グラスリップが意味不明な人のための各疑問に対する考察 - NAVER まとめ

(閲覧:2014年10月20日)

 

 以上のことからグラスリップは、わかりやすく最初から最強の主人公が「俺TUEEEEE!!!」ってやる作品が多い2014年の現状に対してわかりにくさへの回帰を打ち出したという非常に意欲的な作品だが、その試みは残念ながら失敗に終わっているというのが僕の正直な印象である。

 作品に向き合うには何かしらのきっかけが必要で、それは登場人物への共感だったりするのだが、グラスリップにはそういうものが足りていなかったように思う。エヴァンゲリオンがあれほど熱狂的に受け入れられたのは、どこかしら自分のことのように感じた人がそれだけ多かったからだ。

 上記の考察で関心したのは、グラスリップの終盤で登場する「唐突な当たり前の孤独」についての考察で、駆という少年の抱える孤独感が見えにくいことを指摘しているところだ。他の登場人物の視点で進む物語からは、彼の抱える孤独感は視聴者に対して見えにくくなっており、その結果、グラスリップ全体がわかりにくく見えてしまう。

 スタッフ陣は、他者からは見えにくい駆の孤独を主人公の透子が彼の孤独を理解しようとするというストーリーの山場のため、視聴者を透子と同じ目線に誘導しようと試みたのだろう。しかし、駆の孤独が見えにくいということを徹底しすぎた結果、視聴者の興味を彼の孤独にフォーカスすることに失敗し、共感を生み出せなかったのではないか。

 2014年現在のアニメ周辺文化圏では「中二病」がキーワードになっているため、駆の孤独感を示唆するときに、もっと中二病チックな表現を取り入れていれば、作品の評価が違っていたのかもしれない。時代の流れに逆行するにも、まずはその流れを掴む必要があるし、大前提としてその流れの中に身を置かなければならないのだ。

 

 執筆者:六条くるる

(c)午前3時の六条会