嶋田さくらこ『やさしいぴあの』を歌集として読む

 最初に断っておくと、僕は「歌集」と「とある歌人の短歌がたくさん収録された本」は別のものだと考えている。そのどちらもが世間では「歌集」と呼ばれているが、僕の定義では別のものである。ここでは、嶋田さくらこ『やさしいぴあの』を「とある歌人の短歌がたくさん収録された本」としてではなく、「歌集」として読むべきだ、という話を書き進めていく。

 

 ネット上などで『やさしいぴあの』には1首として弱い歌が多い、という意見を見聞きしたことがある。加藤治郎が解説で書いていたような「ちょっとしたいい感じがある。つまり工夫や修辞がさりげなく置かれている」(132頁)歌ばかりではない、という感想なのだろう。

 当たり前ではあるが、『やさしいぴあの』は嶋田の短歌をコンピュータで無作為に並び替えて編集した本ではない。既出の歌が多くを占めるとはいえ、「歌集」という単位の作品として新しく創られたものである以上、すべてのことには必ず意味がある。ならば、その「1首として弱い歌が多い」という点についても別の角度から考察を加えなければならないだろう。

 ここで持説を述べさせてもらうと、どうしようもない駄目な歌を除けば、とある短歌が「1首で生きる歌」でない場合は「連作で生きる歌」である可能性に目を向けるべきである。1首ではすぐに忘れ去られてしまうような弱い歌であっても、連作や歌集のテーマを読者に伝えつつ、1首で生きる歌をサポートする役割を持っていたりするものだ。僕も自分で歌集を編集するときに、こういった意図から微妙だと思った歌でもわざと残す場合がある(それで作品全体が歪んでしまいそうならばもちろん取り除くが)。

 ならば、嶋田の歌集に目立つと言われる1首として弱い歌もこういった性質を持っているのではないだろうか。文脈から引き剥がされてしまうと1首としては弱いものの、嶋田の作家性や私性、あるいは歌集の雰囲気などをさりげなく伝える短歌たちは、『やさしいぴあの』という「歌集」にとっては欠かせないものであるはずだ。これらの歌がなければこの本は「歌集」ではなく、全体像が極めて曖昧な短歌がたくさん含まれているだけの本になっていたかもしれない。

 もちろん、1首として強い歌ばかりのほうがお買い得感はあるし、読み応えもあるだことは間違いない。そういうかたちで編集された素晴らしい本もたくさんあることは知っているが、収録されたそれぞれの短歌のみ着目して「とある歌人の短歌がたくさん収録された本」として読むばかりで、「歌集」という単位で作品を鑑賞することを忘れていては非常にもったいないのではないだろうか。

 もしあなたが短歌の第3句にとある言葉を配置したことに意味があると思うのならば、その歌集の中のその連作のその位置にその短歌があることにも意味があるのかもしれない、と考えて嶋田さくらこ『やさしいぴあの』を「歌集」として読んでみてほしい。

 

 執筆者:六条くるる

(c)午前3時の六条会