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僕がお金を欲しがる理由

 飲みかけの缶コーヒーに煙草の吸殻が10本も詰め込まれたものを欲しがっている人間を見ると「なんでそんなものを欲しがるのか」と不思議がられるだろう。そんなものには汚いごみ以上の価値を見出すのが難しいからだ。

 一方、お金を欲しがっている人が不思議がられることはあまりない。あまりにもお金に対する執着が深いことが他人の目に異様に映ることはあるだろうが、基本的にはみんなお金には価値があると信じているので「そりゃ欲しいよね」と納得されるに違いない。それと同時に、何か買いたいもの/やりたいことがあるのだろうとも思われるのが自然な流れだ。

 改めて言うまでもないが、お金それ自体には印刷が美しい紙や絵柄が美しい金属という以上の価値はなく、食べ物や衣服と交換可能であるという点においてのみ価値があるものだ。それゆえに、お金が欲しい=何か物品やサービスが欲しいと他者から理解されるのは当然だろう。

 

 しかし、僕がお金を欲しがる根本の理由はそれとは似て非なるものだ。僕はお金に対して、交換可能な何かを手に入れられるという以外にも価値を見出していて、それは結論から言えば、罪悪感を軽減してくれると点に尽きる。

 

 この感覚は幼い頃から僕に染み付いているもので、どうにも他人に巧く説明することができない感覚なのだけど、ともかく僕はお金を使うことに一種の罪悪感のようなものを感じている。そしてそれを軽減しうる手段がお金なのだ。

 例えば、あなたが喉が渇いていたとして、目の前に自販機があれば飲み物を購入するだろう。もしかすると、家の近くのスーパーなら94円なのに、とか考えるかもしれないが、家電とか車とか住宅に比べればあっさりと購入してしまうのではないだろうか。ところが、僕はこういった瞬間に何か罪悪感のようなものを感じてしまう。その罪の意識のままに何かを購入するというで快楽を得る場合もあるが、最終的には罪の意識に苛まれることになる。

 こういった僕の内面において、お金が罪悪感を軽減しうるとはどういうことか。いい加減すぎる例えではあるが、1000円のうちの100円を使うのと、1億円のうちの100円を使うでは感じる罪の重さがまるで違うことは容易に想像できるだろう。僕は息苦しくない1億円の世界に生きたいと思うがゆえに、お金が欲しいと言い続けているのだ。

 お金がなくても幸せに暮らすことはできるだろう。でも、その生き方をしたって僕は新たな罪悪感を覚えるだけだ。ならば、僕は今のこの世界で幸せになる道を選ぶ。だからお金が欲しい。毎日の苦しみを和らげるためにランチに少し多めにお金を使ったことを苦しく思って生きるのには飽きてきたしね。

 

 

 執筆者:六条くるる

(c)午前3時の六条会