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【連作編】六条くるるの浅墓短歌講座

 六条くるるの短歌は歌集で読むほうがいい。僕がこう主張するのは、もちろん本が売れてほしいからということもあるが、歌集に収録する作品は連作としてアップデートされて収録されているからだ。
 短歌は連作ではなく一首で勝負するべき、という意見も一理あるし、場合によってはそれが真理となるときもあるだろう。とはいえ、歌集には複数の歌が含まれているのが普通である以上、前後の繋がりや流れを読者が意識することは避けられない。ならば下手に避けようとせずに向き合ってみるべきではないか。
 以上を前置きとして、六条くるるの連作に対する私論を述べてみたいと思う。
 
1.微妙な歌を入れる
 かなり誤解のある書き方ではあるが、具体的には以下のような内容である。
 微妙な歌とは、一首しか投稿できないときには選ばないが連作の流れでならば収録してもいいかな、という歌である。さらに雑な説明をすれば、自分の中の採用ラインが80点以上の歌だとすれば、60点くらいの歌のことであり、作ったそばから捨ててしまいたいような出来栄えの悪い歌のことではない。
 注意しなければならないのは、それは微妙な歌ではあっても無駄な歌ではないことだ。一首としてクオリティが低いものの、連作の中で明確な役割を持てるものしか採用すべきではない。
 これまでの連作では「詩的な強度はないが連作のテーマを再帰的に読者に提示する」といった役割を持たせることが多かった、と参考程度に付記しておく。
 
 
2.お話を作りすぎない
 僕が読者として短歌を読むとき、30首の連作は途中で飽きてしまう。なので、自分の読者も同じくらい飽きっぽいだろうという想定で連作を編集するようにしている。
 その一環として、先ほど述べたようにテーマを提示するような歌を混ぜ込んだりするのだが、それ以上に効果的な方法がある。それはお話を作ることだ。何かストーリーがあれば、読者はそれを追いかけることで飽きずに読み進められるというわけだ。
 しかし、お話は作りすぎないほうがよい。お話の筋をなぞるようなあらすじ短歌は、前後の繋がりに依存するため一首として自立性に欠けており、作った瞬間お蔵入りになるのが常である。また、お話の筋として読み流されてしまうと、意味内容だけ拾われて短歌としてじっくり鑑賞されなくなる危険性も高い。
 お話は読者に読んでもらいやすくなる一方で連作そのものが駄目になってしまうこともある。ならばどうするべきか。
 僕の場合、お話の流れを強く意識させてしまう短歌を間引くようにしている。さらにはメインストーリーを形作る短歌は飛ばし飛ばしに配置するようにして、お話の存在の少しだけ見えにくくする。
 お話を読者に意識させたいのかさせたくないのかどっちかはっきしろ! と思うかもしれないが、何もないところにも勝手にお話を想像(創造)してしまう人が多いので、少し隠し気味くらいでちょうどよい、とこれまでの経験からそう思う。その隠す/見せるの按配は失敗しながら学ぶか、自分の理想的な連作を何度も読んで雰囲気を真似るようにするとよい。
 
 
3.印象を大事にする
 一通りの作業が終わったら、仮組みした連作をあまり読まないようにさらっと読み返してみるのも大事だ。何を言っているのかわからないと思うかもしれないが、ようは字面から浮かび上がってくる雰囲気とか印象とかを感じ取れ、ということだ。
 なぜこの作業が必要かというと、読めば素晴らしい連作でもなんとなくの雰囲気が嫌な感じだと読者が離れてしまう可能性が高いからだ。なんかゴチャゴチャしているとか、抽象的な歌が続いて読んでいてつらいとか、そういう印象が得られれば連作を修正すべきだ。
 無論、ページからの印象が悪くとも素晴らしい連作はいくらでもあるだろう。ゴチャゴチャしてようが、抽象的な歌ばかりだろうが、ぐんぐん読ませてしまう魅力的な歌が揃っていれば連作全体での印象が多少悪くても一切気にすることはない。
 ただ、僕はそういう作品は作り出せないと思っているので、そうじゃない人がどうにか読んでもらえる連作を仕上げるためにこのプロセスは必要だと思う。
 
 読者を信頼する、というのは大事なことだが、それは読者に丸投げしてもよいとか、読者に負担をかけてよい、という意味ではないはずだ。
 
 
 以上、久し振りの浅墓短歌講座でした。
 

 

(c)午前3時の六条会